また一日が過ぎて夜が来た。けれど、いつもならたくさん広がる想像が思い浮かばない。頭の中にあるのは、昨夜見た青年の姿だけ。
きっと来たのは昨日だけ。今日は来ない。そう思っていても、どこかで期待している自分がいる。
よく考えたら一昨日から音は聞こえていたのだから、もしかしたら今日も――。
そんなことを考えていると、小さな声が耳に届いた。はっとしてベッドから飛び降り、窓のカーテンを開ける。昨日と同じベンチで、青年が歌っていた。
どうしようかと、とっさに迷う。その声を聴いてみたい。けれど、変わることが怖い。
いつか受けたような軽蔑の視線を彼にも向けられたら、きっと今以上に立ち直れなくなる。
けれど、何もしなければ今のままだ。これが変われるきっかけになるのならば。
少し迷うように視線を走らせて、パーカーのついた上着を羽織る。顔を隠し、勇気を出して窓を開けた。今度ははっきりと聞こえてくる青年の歌声に、ドキッと心臓が跳ねる。
家で眠っている親戚を起こさないよう、窓を閉めて、ベランダの手すりに手を置いた。
聴こえてくる歌声はやわらかく優しげで、歌われている歌詞の一つ一つを聞き取るたびに心臓がドキドキする。
彼はどうしてこんなところで歌っているんだろう。そんな疑問はあったものの、声をかけることなどできなくて、青年が歌い終えるまでずっとベランダから歌声を聴いていた。
その日から、青年の歌を聴くことが灯火の日課になった。不思議なことに、青年は最初に声を聴いた日からずっと川辺で歌っている。
「ひとつだけ、花をください
たくさん、なんて言わないから
飛んでいる蝶が羽を休められるような
そんな花を私に」
どうやら青年が歌っているのは彼自身が作った曲らしく、じんわりと心にしみわたるような青年の歌声に、立ち止まって聞き惚れる人も増えつつあった。
短くてシンプルなメロディーを繰り返しているだけなのにそれに添えられた歌詞は少し切なくて、小さな平穏を求めているように感じる。
「いくつもの涙をこの目で見てきた
いくつもの嘆きをこの耳で聞いてきた
許して、なんて言わないから
助けて、なんて言わないから
ただ、ください ひとつだけ
この世界を生き抜く夢を
私に、ひとつだけ――――――」
決して多くを望まない、一つでいいから何か心の拠り所を―――そんな思いが伝わってくる。
「夢を…私に、ひとつだけ……」
そっと小さく歌詞を呟いてみる。
「私にも…もらえるかな」
そう呟いたところで、気付いたことがある。
彼の歌を聴くだけで癒される心。頭の中だけにしかなかった癒しの時間が、現実の世界で流れている。その喜びを感じられるだけで、明日を求める、生きるための力になる。
『生き抜くための夢』は、もう彼にもらっているんだ。
そのことを実感すると同時に、一度満たされることを知った心に小さな欲が現れた。
時々観客と話しながら笑っている青年を見て、自分も他の人と同じように話してみたいと思ってしまう。
歌声が聴ければそれでいいと思っていたのに、大きくなる欲望。
精一杯、気持ちを奮い立たせてでてきたはずのベランダだったが、もっと近づくことができないことがもどかしい。
話したい、けれどできない。そんなジレンマを抱えながら、灯火は青年に惹かれつつある自分を感じていた。
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