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 柔らかな朝の日差しの中で、なだらかな丘に咲き誇る草花が体を揺らす。その草花たちに守られるように、丘の上には大きな木があった。大人の人間でさえ両手では抱えきれないほどの、立派な幹を持つ銀杏の木。
 その木の向こう側から、明るい声が聞こえてくる。
 ふわりふわりと揺れながら、小鳥と共に少女が空を翔けていた。
「えへへ、一本木まで競争だよ!」
 はしゃぎながら少女が飛ぶと、そのあとから穏やかな風が追ってきた。
 小鳥たちと戯れながら飛んでいた少女は、銀杏の木に近づくとひときわ勢いを増して大木に手を触れた。
「やった! 私の勝ちだね!」
 きゃっきゃっと少女がはしゃぐと、その周りを風がめぐる。
 一緒になって飛んできた小鳥達は、少女の頭上を何度か旋回して大空へ飛んでいった。
「あ、もう行っちゃった。また遊ぼうね、小鳥さん!」
 笑顔で手を振って、小鳥たちを見送る。その姿が見えなくなると、次は何をしようかと辺りを見渡し、数枚の葉が落ちているのを見て瞳を輝かせた。
 葉の側に立ち、くるりと回る。
「えいっ!」
 すると、ふわりと優しい風が生まれ、木の葉を宙へ舞いあげた。少女がくるくる回ると、それに合わせて木の葉も回る。
 くるくる、くるくる。
 ひらひら、ひらひら。
 落ちて、回って、舞いあげて。
 くるりと元気よく回り、ふとその体が傾いた。
「あ、れれ……?」
 ぱたんと丘の草原に倒れ込む。体は動いていないのに、少女の視界は大きく揺れていた。
「へへ…目が回っちゃった」
 失敗、失敗、と言いながら、それでも少女の顔から笑みは消えない。
 視界の揺れがおさまったのを確かめて立ち上がると、服についていた草が離れてふわりと舞った。
 と、何か強い流れを感じ、少女が風上へ視線を向ける。そのとたん、ひときわ強い風が吹いて、少女の体を宙へ押し上げた。
「うわわ……」
 慌てて態勢を整えようとじたばたもがいていると、優しい腕がふわりと少女を包んだ。
「あら、ごめんなさい。大丈夫?」
 支えてくれた腕の主を振り返ると、綺麗な薄ピンクの髪を持つ女性だった。
 女性の手を借りて態勢を整え、正面から向き直る。
「すごい風だったね。もしかして、あなたは春一番さん?」
「そうよ。あなたはそよ風さんね? 吹き飛ばしちゃってごめんなさいね」
 穏やかな表情で詫びる女性に、少女はふるふると首を横に振る。
「いいの。だってそれがお仕事だもん」
 そよ風と、春一番。彼女たちは世界を流れる風そのもの。風として流れることでその存在を保ち、人々の目には映らなくとも、触れればそこにいる。
「春一番さんが来たって事は、もうすぐ春が来るの?」
 わくわくした様子でそよ風が問うと、春一番は大きく頷いた。
「えぇ、すぐに温かい風が流れてくるわ」
「それじゃあ、お花もいっぱい咲くんだね! あとで葉風さんにも教えなきゃ」
 無邪気に笑って、少女は嬉しそうにくるりと宙で回る。
 はしゃぐ少女を見てくすりと笑い、春一番はそよ風の頭を撫でた。
「皆さんに、よろしく伝えてね」
「うん! 葉風さんと、朝東風あさごちさんと、あ、突風さんも捕まえて教えなきゃ!」
 嬉しくて仕方がない様子のそよ風を見ていた春一番は、ふと思い出したように顔を上げる。きょとんとそよ風が春一番に向き直ると、春一番は少し硬い表情を浮かべる。
「そういえば、東の森に嵐が来たそうよ。でも嵐は乱暴だから、近付かない方が良いわ」
「そうなの?」
「近付いたら、吹き飛ばされちゃうわよ。気まぐれだから、そのうちどこかへ行くでしょうね。……あら、いけない。ちょっとおしゃべりしすぎたわ」
 はっと我に返って、春一番はふわりと舞い上がる。
「そろそろ行かなきゃ。春を報せないと」
「きっとみんな、喜ぶよ。またね、春一番さん!」
 そよ風が大きく手を振ると、春一番はにこりと笑って駆け出した。そのあとから追うように、強く温かな風が吹く。
「行っちゃった……。よし、じゃあ私もお仕事しよう!」
 春一番は、温かな南風で、春を報せる。
 少女の仕事は、この丘にそよ風をおこすことだ。
 丘の上から麓に向けて、ふわりふわりと飛んでいく。そよ風が生み出した風が、穏やかに草花を揺らした。
 気まぐれに、右へ、左へ揺れながら麓を目指す。
 ふとそよ風が飛んで行く先に人影が見えた。丘の途中に座り込んでいるのは、人間だ。
 人間には風達の姿は見えないし、声も届かない。風を体で感じるだけだ。
「こんにちは、お兄さん」
 一声かけて、そよ風が男性のそばを通り過ぎる。さわりと男性の肌を風が撫でた。
(あれ……?)
 飛んでいたそよ風は慌てて動きを止めた。
(今…お兄さんの背中に、何か見えた気がした……)
 くるりと振り返って、後戻り。座っている男性の元まで戻ったそよ風は、目を見開いた。
「羽だ……」
 男性の背には、大きな翼があった。
「このお兄さん、翼人さんなんだ……」
 翼人とは翼を持つ人間のことで、普段は雲の上に住んでいる。翼人は下界の人間との関係を断ち切っているため下界に姿を見せることはなく、翼人の存在を知る人間はほとんどいない。そよ風も、翼人を見るのは初めてだった。
 自分の姿が見えないのをいいことに、そよ風は翼人に近付いてみる。
「すごい、おっきい羽だ……あれ、でもこの羽―――」
 見つめていて、そよ風はあることに気付く。
 立派な青の翼は、左翼がひどく折れ曲がっていた。
「怪我してるの? 空から落ちたの? 痛い?」
 おろおろと思わず声をかけるが、当然、そよ風の声は男性には届かない。どうすればいいのかわからず、そよ風はぐるぐると男性の周りを飛ぶ。
 と、座っていた男性がゆっくりと立ち上がった。大きく翼を広げる。
(飛ぶのかな?)
 そよ風がそっと様子を見守っていると、男性は翼を羽ばたかせた。ふわりと足が地面を離れる。けれど舞い上がることは出来ず、三十pほど浮いただけだ。上には上がらず、よろよろと少し前に進んで、落ちた。
(やっぱり……)
 飛べないのだ。翼が曲がっているから。
 もう一度翼を広げた男性を見て、そよ風は体に力を込めた。男性が羽ばたくのに合わせて、風を送る。少し上昇した。けれどそれも一mが限界で、"飛ぶ"というにはほど遠い。
 ぐったりと地面に倒れた男性は、握ったこぶしを地面に叩き付けた。
「くそっ! どうして飛べないんだ!」
 悔しげに、悲しげに、男性は地面を叩く。
「―――りたい……」
 その瞳から、涙がこぼれた。
「帰りたい……家に…空に、帰りたい……ハル…ツバサっ――――!」
 最後に口から出たのは、家族の名前だろうか。
 じわりとそよ風の胸が熱くなる。
 この男性には、帰る場所があるのだ。会いたい人がいるのだ。けれど、地上に落ちて翼が折れ、帰れなくなってしまった。
 会いたい、会いたい……帰りたい――――。
 胸を刺すような悲しみ。
 そよ風には慰めるように風で撫でてあげることしかできなかった。





 そよ風……そよそよと吹く風。微風。

    春一番……立春を過ぎて最初に吹く、昇温を伴った強い南風。

   葉風………草木の葉を動かす風。

   朝東風あさごち ……春の朝に吹く風。

    突風………突然の強風。疾風。                      風の辞典 様より



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