なだらかな丘を南へ下っていくと、確かに座り込んでいる翼人の姿があった。
「アレが話の翼人か?」
「うん」
宙にとどまって二人が見下ろすと、翼人は項垂れたように顔を伏せていた。折れた翼も、しおれて縮こまってしまっている。
「言っておくが、俺はまだ本調子じゃないんだ。俺だけの力で人間を飛ばすのは無理だぞ。あの翼人が自分で飛ぶ気にならないと」
「わかった、やってみる」
嵐の言葉に頷き、そよ風はひらりと宙を舞った。
翼人に近付き、その周りをぐるぐる回る。徐々に力を込めて、風の存在を報せるのだ。
「……? 風が……」
翼人は人間よりも風を読む力に長けている。すぐに風の変化に気付いたらしい。
顔を上げて辺りを見渡す翼人を見て、そよ風が精一杯力を込めて翼人の背中を押した。風に押され、翼が広がる。
「飛べ、というのか?」
困惑気味に呟く翼人に、そよ風はこくこくと頷く。その姿は見えていないが、翼人は促されたように立ち上がった。
自ら翼を広げ、羽ばたく。
「嵐さん!」
「ったく……」
小さく舌打ちしながら、嵐が腕を掲げた。そよ風の起こす風とは比べものにならない、強い風が巻き起こる。
これなら、飛べるかもしれない。
翼人が、勢いよく地を蹴った。それに合わせて、嵐が力を込める。ふわり、と翼人の体が宙に浮く。
折れた翼を賢明に羽ばたかせ、もがくように空を目指す。
家のある、あの空に。愛しい人のいる、あの空に。
帰りたい……帰りたい……帰るんだ!
曲がった翼が、ずきずきと痛む。
少し翼人の体が落ちて、それを支える嵐の顔が歪んだ。
風を送るにも、力がいるのだ。あまり長続きはしない。
「翼人さん、頑張って…!」
そよ風も、渾身の力を込めて風を送る。
少しずつ、翼人の体が雲へ向かう。
少しずつ、少しずつ……あと、ほんの少し―――――。
ふわりと名残を残して、風が止んだ。嵐が大きく肩で息を吐く。
翼人が踏みしめたのは…雲だった。
帰れた。空に帰れた。
つかの間唖然としていた翼人が、我に返って走り出す。
空に浮かぶ雲の上の、小さな家。
「ハル…! ツバサ……!」
叫ぶような声に、家のドアが開いた。驚いたように目を見開いた女性がいた。小さな男の子が、家を飛び出してくる。
「父さんだ! 父さんが帰ってきた!」
飛びついてきた我が子を自分の手で抱きしめて、涙が溢れた。
「あなた、無事だったのね。何日も帰ってこないから、私、心配で―――」
「あぁ、ごめんよ、ハル」
涙を浮かべる女性をそっと抱き寄せて、翼人の男性は何度も謝っていた。
再会を果たした家族の頭上を、そよ風がくるりと回る。下から運んできた花をまき散らし、風に乗って花が舞う。
――――良かったね
届くはずはない。けれど確かに聞こえた声に、男性が涙混じりに笑う。
「ありがとう!」
誰にともなく答えて、無我夢中で愛しい家族を抱きしめた。
少し離れた雲の上でその様子を見届け、そよ風がにこにこと笑う。
「よかった。翼人さん、家族に会えた」
はにかむそよ風に、嵐が疲れたように腕を回しながら口を開く。
「俺達風は自然が生んだ物だ。家族なんていないから、俺にはわからないな」
面倒そうに呟く嵐に、そよ風がその顔を見上げる。
「そんなことないよ。人間には見えなくても、風はここにいて、他の風とも会えて、話が出来る。今までに会った風は、みんな仲間で、家族だよ」
そよ風の言葉が予想外だったのか、嵐が目を瞬いて視線を落とす。そよ風は相変わらずにこにこと笑っていた。
「だから、嵐さんも私の家族なの」
ためらいなく言い切った少女に、嵐は一瞬虚を突かれた。
そんな法則ならば、世界中の風が家族になってしまうではないか。けれど、そうなのかと訊けば、この少女はためらわずに頷くだろう。それが簡単に想像できて、少し笑えた。
ふぅっと嵐がわざとらしく溜め息をつき、雲の下へ降りる。
「俺は家族なんかごめんだね」
するりと風を纏って嵐が降下すると、当然のようにそよ風はついてきた。
「えー、どうして? なんで家族は嫌なの?」
「さあな、それくらい自分で考えてみたらどうなんだ? よわ風さん」
「よわ風じゃないもん! そよ風だもん!」
「とにかく、ちゃんと助けてやったんだから、もう俺にかかわるなよ。俺は寝る」
ムキになるそよ風に構わず背を向けたままひらりと嵐が手を振ると、結局寝たいだけでしょ、とそよ風はむくれた。
「じゃあ夏なら会いに行っていいの?」
首を傾げる少女に、嵐は隠れてふっと笑う。
「―――二度と来るな」
「あ、ひどい! せっかく家族なのに! 嵐さんなんかもう知らない!」
憤慨して叫ぶそよ風を無視して、森の方へ飛んでいく。
もう知らないと言いながら、あの少女はきっと諦めない。
少し騒がしくなりそうだ。
そんなことを思いながら、嵐は空を蹴った。