また一日が過ぎて、次の日の夜。
いつものように歌声が聞こえてくるが、灯火は外に出るのを少しためらっていた。
昨晩、落ち着いて考えてみたら、初めて言葉を交わした人の前で泣いてしまったことが急に恥ずかしくなってきたのだ。
曲を聴いただけで泣き出したりして、彼はどう思ったんだろう。そのあとすぐに立ち去ったのは、泣かれて困ったから? けれど、青年は笑ってくれたし、フードをかぶっていたから見えていなかったかもしれない。
大丈夫だ。そう言い聞かせて、ようやく窓を開ける。
恐る恐る外に出ると、冬の夜に溶け込むような優しい歌声が灯火の心にしみわたる。
手すりまで歩いて少し身を乗り出すと、一瞬、青年と視線が合った気がした。
見てくれている。
今までは人に姿を見せるのが怖かったのに、彼に見られることは少し恥ずかしくて、でもとても嬉しい。
こんな気持ちになるのは久しぶりだ。
今日も寒いせいか立ち止まる人はいなくて、一曲歌い終えたら昨日のようにまた来てくれるだろうかと、少し胸を弾ませる。
昨晩と同じように目を閉じて曲に聞き入っていると、ふいに演奏が止まった。不思議に思ってそっと目を開けると、青年のそばに眼鏡をかけた背の高い男性がいた。青年はその男性と笑顔で言葉を交わしている。
何を言っているのかまではわからないが、話している様子からして知り合いだろうか。年が離れているように見えるし、彼の歌を聴きに来ている常連なのかもしれない。
そんなことを考えていると、短い会話を終えた男性は、すぐに歩き去ってしまった。
それを見送った青年が、白い息を吐きながらギターを抱えてこちらに歩いてくる。
「やぁ、こんばんは」
青年に笑いかけられて、灯火は少し戸惑った。人と言葉を交わすのは久々で、とっさに声が出てこない。代わりにぺこりと頭を下げると、青年は面白そうに笑って木の根元に腰を下ろす。
「今日も歌ってあげるよ。何が聴きたい?」
軽くギターを弾きならしながら尋ねられて、うーんと少し考える。
「………昨日の、お気に入りと同じ曲を」
「うん、了解!」
頷いて、青年は歌いだす。のびやかな歌声がゆっくりと夜の空へ溶けていくようだった。
決して夜を邪魔しない、優しくしみこむ歌。
歌が終わるまで目を閉じて、最後の音が消えると自然と表情が緩んでいた。
そっと目を開けると、青年はギターを肩に預けて両手をこすっていた。ギターを弾くには手袋はできないし、やはり寒いのだろうか。
「あの、大丈夫ですか?」
遠慮がちに尋ねると、青年は驚いたような表情で灯火を見上げ、ニコリと笑った。
「初めて君から話しかけてくれたね」
「え……あ、その……………」
返された言葉が想定外でドキマギしていると、青年は嬉しそうにうなずく。
「平気だよ、ありがとう」
笑顔で言われて、少し肩の力が抜けた。
「ありがとうございます」
すっと素直に出てきた言葉に、青年はきょとんと首をかしげる。
「なんでお礼?」
「私のために、昨日も歌ってくれたから」
「あ、そういうこと? いいんだよ、別に。何か求めてるわけじゃなくて、自分が好きで歌ってるんだし」
彼にとっては何気ないことだったかもしれない。けれど、彼に出会って曲を聴いただけで、単調だった夜の過ごし方が変わり、想像だけだった幸せは現実になった。
「それでも………ありがとうございます」
ふわりと、少しだけ笑えた気がする。
二度の礼を受けた青年は少し考え込み、いたずらめいた顔で灯火を見上げてきた。
「じゃあさ、歌う代わりに君のこと教えて? 名前はなんていうの?」
「……冬崎灯火」
「ふーん、灯火ちゃんか」
「ちゃんだなんて、呼び捨てでいいですよ」
「そう? じゃあ灯火って呼ぶね」
笑顔で名前を繰り返されて、少し顔が熱い気がする。それをごまかすように、灯火はうつむいた。
「灯火はなんでこんな時間まで起きてるの?」
続けられた問いに、一瞬で体が強張る。脳裏によみがえるのは、赤い炎と軽蔑の視線。
「灯火?」
答えを促すように名を呼ばれ、灯火はぎゅっと手を握った。怖いけれど、自分のために歌ってくれた彼が知りたいと望むなら―――。
「朝が……太陽が、怖いんです」
「怖い?」
「昔、火事に遭ったことがあって、明るい場所だとどうしても思い出してしまうから」
顔の傷の事は、言えなかった。そんな説明でも納得してくれただろうかと答えを待つと、青年は少し笑ったようだった。
「そっか。じゃあ俺と同じだ」
「………え?」
予想外の答えに灯火が思わず顔を上げると、青年は川の方を見つめながら語り始めた。
「俺、鬼なんだよ。歌鬼っていうの」
「うた、おに………?」
「そう。歌う鬼。牙をもつ吸血鬼」
がおーと襲う真似をする青年に、首をかしげた。
(鬼だなんて………冗談だよね?)
どういう意味なのかわかず黙っていると、青年は何でもない事のように言葉を続ける。
「ほら、吸血鬼って太陽の光に当たると死んじゃうだろ? だから夜に歌ってるの」
「そう、なんですか………」
それは夜にしか歌えない理由があるという意味だろうか。
(まさか本当に鬼で、人間じゃないなんてことはないだろうし―――)
軽い冗談だろうと思って次の言葉を待っていると、青年はそれ以上言葉を続けず、すっと立ち上がった。
「あの………鬼さん」
「何?」
振り返った歌鬼に、恐る恐る聞いてみる。
「あ、明日も来てくれますか?」
図々しいお願いだろうか。朝が怖いという自分に合わせて、わざわざ夜に会いに来てくれる彼に、甘えてしまう。
ドキドキしながら答えを待つと、歌鬼はまた笑顔で灯火を見上げた。
「もちろん! 明日も来るよ。おやすみ」
その答えにほっと息をついて、頷く。
「おやすみなさい」
安心して、去っていく歌鬼を見送る。
事情を知っても、彼は来ると言ってくれた。
また明日の楽しみができたことを嬉しく思いながら、灯火は部屋へ戻った。
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