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 互いの名前を知ってから数日が過ぎた。歌鬼はベンチでも歌うが、今では観客が去った後に灯火のもとへ来てくれるのが恒例になっている。彼は灯火の事情を知っても普通に接してくれている。
 だから、忘れていた。自分が普通ではないということを。
 その日も、風の冷たい日だった。
 肌寒さで少し早めに目が覚めた灯火は、いつものように夕食をとろうと部屋のドアを開けた。
「うわ!?」
 開けた瞬間に届いた声に驚いて顔を上げると、弥と目が合った。弥は灯火にとっては従兄にあたる。
 ちょうど夕食を持ってきてくれたらしい。
「あ、ありがとうございます……」
 少し戸惑いながらも礼を言うと、弥はぶっきらぼうに夕食が乗った盆を差し出した。じっと灯火を見て、顔をしかめる。
「相変わらず不細工な顔してんのな」
 何気なく言われた言葉に、灯火の動きが止まった。
「弥―? どうかしたの?」
 一階の方から叔母の声がして、弥はくるりと踵を返した。
「いや、なんでもない」
 そう答えながら、弥が去っていく。
 足音が聞こえなくなっても、灯火はしばらくその場から動けなかった。
 何を言われたのか、一瞬理解できなかった。最近は歌鬼と普通に会話ができていたから、忘れていた。周りから自分に向けられる視線が、どういうものなのか。
 それが普通だったはずなのに。
 軽蔑の言葉なんて、当たり前だったはずなのに。
「………」
 弥から受け取った盆をドアの前に置き、手を付けないままドアを閉める。少しドアから離れて座り込み、灯火は抱えた膝に額を押し付けた。
 体が震える。
 こみ上げる涙を止められない。
 もうなくなったものだと思っていた心の痛みが、じわりじわりと広がっていく。
(私…馬鹿みたい………)
 彼は普通に接してくれていたから、その優しさにおぼれて舞い上がっていた。もう普通に戻れたかのように思ってしまった。けれど、結局は何も変わっていない。自分は彼と出会う前と同じ、醜い姿なのだ。
「―――っ…」
 必死に声を殺して、灯火は泣いた。







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