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 それからどれだけの時間が過ぎたのか。泣きながら眠ってしまったらしく、灯火はくらくらする頭を持ち上げて時計を見た。
 午前四時。もうそろそろ日が昇る時間だ。
 結局、歌鬼の歌は聴けなかった。突然来なくなった自分を彼はどう思っただろう。
 タオルで涙をぬぐって、そっとカーテンの隙間から外を覗き…驚いた。いつものベンチに、彼の姿があった。
 驚きのあまりもう一度時間を確認して、灯火は慌ててベランダに出た。
 凍てつくような寒さの中、歌鬼はギターをわきに置いて手をこすっている。もしかしてずっと自分を待っててくれていたのだろうか。
 声をかけようとするが、弥から向けられた軽蔑の視線を思い出して、体がすくむ。歌鬼が待っていてくれて嬉しいのに、声が出ない。けれど、このまま部屋に戻るのは待ってくれていた彼に悪い気がした。
 どうしようか戸惑っていると、ふいに歌鬼が顔を上げた。その視線の先には、一人の男性がいた。
(あの人は……)
 歌鬼と目が合うなり笑いかけながら歩いてきたのは、確か以前にも彼と話をしていた人だ。歌を聴きに来たのだろうか。
 だが二人の様子を見ていても歌鬼はギターを手に取ることはなく、話しているだけだ。
 歌が目的でないなら、あの人は誰?
 じっと二人を見つめて耳を澄ませていると、いくつかの単語が聞き取れた。
『しょうご』『うた』『せんせい』
 おそらく『しょうご』というのは歌鬼の名前だろう。だとしたら、先生というのは話している男性の事になる。
 なぜか急速に心が冷えていく気がした。
 少し話をした後、男性は立ち去り、歌鬼が顔を上げた。視線が交差する。薄暗い視界の中でも彼が笑ったのが分かった。
「灯火! 良かった、今日はもう会えないかと思ってた」
 足早に近づいてきた歌鬼に、ぎこちなくうなずく。なぜだろう。いつものように話せない。歌鬼もそれを感じたのか、不思議そうに首をかしげる。
「どうしたの? 何かあった?」
 かじかむ手をさすりながらの問いに、灯火は自分のつけていた手袋を外して、歌鬼の方に落とした。
 受けとめた歌鬼が、きょとんと瞬く。
「ずっと、待ってたんですか? ……寒いのに、無理しないでください」
 嬉しいはずなのに、素直にそれを言えない。
 けれど、手袋を受け取った歌鬼は、少し間をおいてにっこりと笑った。
「ありがとう。使わせてもらうよ」
 いそいそと手袋をつけて、歌鬼は抱えていたギターをケースにしまう。その様子を眺めながら、何気ない調子で口を開く。
 先ほどから胸の中にくすぶって消えないわだかまり。その答えは半ばわかっていたのに、訊かずにはいられなかった。
「さっき話していたのは学校の先生ですか?」
 問うと、ギターケースのチャックを閉めながら、歌鬼はあいまいに笑った。
「うん、まぁそんな感じ。俺の先生だよ」
 青年の答えに、心が沈むのが分かった。
(やっぱり、彼も普通なんだ………)
 たとえ夜にここで歌っていても、彼には彼の昼間の生活があって、学校があって、普通の暮らしを送っているのだ。
 やはり、自分とは違う………。それを嫌でも感じてしまって、冷えた心が鈍く痛む。弥から向けられたあの視線が頭から離れない。
 これ以上、誰かと話すのが怖い。
「……あの―――」
「あ、雪だ」
 今日はもう部屋に戻りたくて灯火が歌鬼に声をかけようとすると、歌鬼は空を見上げてぽつりとつぶやいた。確かに雪がちらちらと舞っていた。
「初雪だなぁ。どうりで寒いはずだ」
 空を見上げてふと何か思いついたのか、歌鬼は灯火に目を向けた。
「ねぇ、せっかくだし、一緒にここで初雪見ようよ」
 それは、外に出て来いということだろうか。
「でも、家の人眠ってるし、今日はもう………」
「大丈夫。ほら、こうして―――」
 とっさに灯火が出ることをためらうと、歌鬼はそばにあった木の枝に手をかけた。そのままひょいひょいと身軽に上ってくる。
「木を使えば、ここからでも降りられる」
「でも………」
「いいからいいから、大丈夫だって!」
 一気に近くなった距離に戸惑っていると、歌鬼は躊躇なく灯火の手をつかんで引いた。
 なんとなく彼に対して申し訳ない気持ちがあったので、されるがまま手すりを乗り越えてみるが、二階とはいえ結構高い。思わず身をすくませると、歌鬼がそれを支えながら笑った。
「ほら、俺につかまって」
「う、はい………」
 歌鬼の手を借りながらゆっくりと木を降りていく。あと少しのところまで降りると、先に地面に降りた歌鬼が手を伸ばした。
「ほら、もう少し」
 その手につかまろうと手を伸ばした時だった。ずるりと足元が滑り、灯火の体が傾く。
「きゃ!」
「っ、危ない!」
 一瞬の浮遊感のあと、どさりと地面に落ちた。けれど、痛くない。どうしてだろうと思った時に寄り添う暖かさを感じ、歌鬼に受け止めてもらったのだとようやく理解した。
「いてて。ごめん、受け止めきれなかった」
 一緒になってひっくり返った歌鬼の声を聴いて、灯火は慌てて立ち上がった。
「あ、ごめんなさ―――」
 ぱっと離れると、ふいに頭の軽さを感じた。かぶっていたフードが外れている。
「灯火、だいじょう―――」
「見ないで!」
 とっさに叫んだが、遅かった。
 歌鬼の目が、灯火の顔に刻まれた火傷の痕を捉える。
 見られた。
「―――っ!」
 驚いた様子の歌鬼を無視して、思わず走り出していた。
 見られた。傷を見られた。醜い傷跡。汚い顔。それを彼に見られたことがすごくショックだった。
『相変わらず醜い顔してんな』
 弥の言葉が何度も頭の中で繰り返される。
 隠していたのに。きっと彼も近づくのを嫌がる。そうして離れていく彼を見るのがつらい。彼の口から拒絶の言葉を聞きたくない。
 歌鬼から離れたい一心でがむしゃらに走っていたが、靴を履いていないせいで足が痛む。痛みで足元がふらついて、走っていた勢いのまま倒れこんだ。
「灯火!」
 男の足なら追いかけることは簡単だろう。すぐに追いついた歌鬼から、隠れるようにうずくまる。
「やだ! 来ないで………見ないで!」
「灯火、落ち着いて。何をそんなに怖がることがあるのさ?」
「だって、私の顔……………」
 両手で顔を隠して泣き崩れる灯火を見て、歌鬼はそっと灯火の背中を撫でた。
「火傷のあとがなんなのさ? 傷跡なんて、誰でも持ってる。灯火はそれがたまたま顔だっただけだ。そうだろう?」
 冷静に諭されて、波立っていた心が少しずつ静まっていく。体を起こして涙をぬぐいながら、灯火は嗚咽交じりに口を開く。
「きもちわるく、ないの? みんな、これをみた、ら……にげてくのに」
「気持ち悪くなんかない。俺がそんなことで君を避けるような人間に見えるの?」
 問い返されて、灯火はふるふると首を横に振った。それを見て、歌鬼が優しく笑う。
「ほら、顔あげて。俺は絶対に君から逃げたりしないから」
「っく………しんじて、いいの?」
「当り前だろう。好きな人から逃げるもんか」
「………え?」
 自然と口にされた歌鬼の言葉に顔を上げて、歌鬼の向こうに明るい光を見つける。
 夜が明ける。朝が来る。
「あの………鬼さん、すきなひとって―――」
「―――うっ」
 太陽の光が二人を照らした直後、歌鬼の体がぐらりと傾いた。そのまま地面に倒れこむ。
「え? おに、さん………?」
 慌てて歌鬼の体に触れると、その体は驚くほど震えていて、汗がにじんでいる。呼吸もどこか苦しそうで―――。
 どうして? なんで彼は苦しんでいるの?
 混乱しながら思い出すのは、彼が口にした言葉。
『ほら、吸血鬼って太陽の光に当たると死んじゃうだろ?』
 まさかあの言葉は事実だったの? 本当に彼は鬼で、日に当たると死んでしまうの?
 慌てて自分の体で影を作って歌鬼を抱き起こすが、女の自分に青年ひとり分の体重は重い。彼の頭を膝に乗せるのが精いっぱいだった。
「――っ誰か! 誰かいませんか!?」
 とっさに叫ぶと異常を察したらしい近所の人が騒ぎ出す。
「誰か、彼を助けて―――」
「あかり………」
 ぽつりとこぼれた声にはっと視線を下ろすと、歌鬼がうっすらと目を開けていた。
「鬼さん! 今助けを」
「あかり………きいて」
 灯火の言葉を遮って、歌鬼は苦しそうな声で話し始めた。
「あかり………人にさけられて、異常だっていわれて、つらいのはわかるよ。俺も普通じゃないから。でも、だからって世界を拒まないで。わかってくれる人は、必ずいるから」
「……うん」
「ほら、見てごらん。世界はこんなに明るいし、優しい。怖くなんかないよ。みんなが俺たちを心配して集まってる」
「っ、うん………」
 歌鬼の言葉に頷くことしかできなくて涙が止まらない。彼はこのまま消えてしまうの?
「俺は、灯火が好きだよ。君と出会えてよかった。………ねぇ、もし、君とまた会えたら、俺と付き合ってくれる?」
「うん、付き合う。何でもする。だから鬼さん、死なないで!」
 すがりつくようにして泣いている灯火を見て、歌鬼は穏やかに笑った。
「ありがとう。灯火、大好きだよ―――」
 その言葉を最後に、歌鬼のまぶたが落ちた。







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